【佐藤紙子工房】日本に平和をもたらした白石和紙のはなし。
取材・写真:岩井 巽(東北スタンダードマーケットディレクター)
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戦争を白紙にもどした紙
今から100年前まではいかない、そう遠くはない昔。人類史上最大の戦争と呼ばれた第二次世界大戦が勃発していたと思うと、平成に生まれた僕にとっては信じがたい。日本に原爆が投下されたのもこの時、1945年。……といきなり暗い話題から入ってしまったが、この戦争を「白紙にもどす」ための降伏文書に使われた紙が「白石和紙*」だったことをご存知だろうか。
*白石和紙:宮城県伝統的工芸品に指定されている手漉き(てすき)和紙。参考:http://tetotetote-sendai.jp/shiroishiwashi/
白石和紙とは、宮城県白石市で作られる手漉き和紙のこと。伊達政宗公が和紙の原料の「楮(こうぞ)」の木を育てることを奨励したおかげで、江戸〜明治時代の白石市は、和紙の産地として全国的に有名になった。生産量が多かった上に品質も最上級で、幕府や朝廷への献上品とされていた。
では、白石和紙の品質の高さはどこから来ていたのだろう。それを知るには、そもそも、和紙とはなんなのかを知る必要がある。
今の時代に一般的に使われている紙は「洋紙」と呼ばれている。洋紙が広まったのは1913年以降のこと。それまでは和紙・洋紙という区別はなく、和紙のことを“紙”と呼んでいた。しかし、今や和紙と洋紙の立場は逆転し、和紙の方がマイナーになってしまった。その原因の一つとして、根本的な作り方の違いがある。
少し専門的な話になるが、和紙の材料が楮(こうぞ)の木の皮であることに対して、洋紙の材料はパルプ(木製チップ)を使う。どちらも繊維を一度溶かしてから、乾かして成形することで紙になる。和紙の原料を溶かしたものが、繊維が絡まり合った「卵スープ」状で、洋紙の原料を溶かしたものが、どろどろの「ポタージュ」状だとイメージしていただければ、丈夫さに違いが出ることがわかるだろう。
楮の木を材料として使える状態にするには、皮を煮て蒸して叩き、細長く裂くなど、機械ではできない手作業が必要になる。しかも、楮の木には様々な品種があり、白石市では特に繊維が長い「カジノキ」という品種を育てていたため、より加工に手間が掛かった。
機械で量産できる洋紙の方が合理化を目指す経済成長の中で効率が良く、和紙の需要は減っていった。しかし、手間暇かかる和紙の丈夫さを知り、重宝している人がいることも事実。和紙は1000年以上も保存できると言われ、公式文書には必要不可欠だ。
1000年持つ、神聖な紙
白石和紙は評判の高さから、宮内庁へ定期的に納められていた。それが第二次世界大戦の降伏文書として使われたのである。1945年、戦艦の甲板で白石和紙の降伏文書への調印直後が行われた。調印後、軍人が「和紙は1000年持つそうだが、この条約も1000年持つように。」と言ったというエピソードからも、特別なものとして扱われていたことが伺える。終戦後には、外国の方々が「平和のシンボルの“カミ”を見せてくれ」と、度々白石市を訪ねてきたという。
文書用の紙として使われる一方で、白石和紙は装束としても使われていた。和紙を細く裂いて、撚(よ)りをかけて糸にしたものを織ると「紙布織り(しふおり)」に、コンニャク糊で揉んで丈夫にしたものを仕立てると「紙衣(かみこ)」となる。繊維の長い和紙の服は、風を通さず温かいため、布よりも高価な最高級品とされていた。
松尾芭蕉が旅の防寒着として愛用していた他、奈良県の東大寺の儀礼にも使われている。着た人の気持ちが引き締まる、白装束の原型だ。紙衣の背景に共鳴したクリエイターも多く、1982年に「イッセイミヤケ」が白石和紙をテーマにしたコレクションを発表。また最近では、東京の21-21 DESIGN SIGHTで行われた「民藝 MINGEI -Another Kind of Art展」で、深澤直人氏が選んだ「民藝」の一つとしても展示されている。
残念ながら、今は白石和紙の正当な漉き手はいなくなったが、市民団体「蔵富人(くらふと)」が技を継承し製作している。また「白石紙子(かみこ)」と呼ばれる、和紙に模様をとり小物に仕立てる工芸品として派生し、白石市内に2軒の工房が現存している。その内1軒の「佐藤忠太郎紙子工房」に、僕は時々お邪魔している。
白石紙衣の文化から派生した「白石紙子」
佐藤文子(ふみこ)さんは、創業者の佐藤忠太郎氏の2代目のお嫁さん。現在はお一人で工房を営んでいる。
忠太郎氏は、もともと白石市で呉服店を営んでいた。着物を仕立てる一方で、紙布織りにも関心があった。当時は洋紙の普及が始まった頃で、紙布織りの文化が衰退していく一方。忠太郎氏は紙布織りの作り方を調べて回り、自分の工房で再現することに成功した。これが忠太郎氏と和紙の出会いだった。
それから和紙を触っていくうちに、石碑などの凹凸があるものに、湿らせた和紙を叩きつけると模様が写しとれることを発見する。白石市には、かつて紙衣を愛用していた松尾芭蕉が残した句が書かれた石碑もあり、忠太郎氏は石碑を探しては写しとった。やがて、浮き上がった模様に着色をしたものを「拓本染め(たくほんぞめ)」と名付けた。
拓本染めの技法を考案した忠太郎氏は、呉服店で培った仕立ての技術を応用して、様々な製品を作っていった。拓本染めされた和紙は、バッグ・ポーチ・名刺入れなど、日用できる品々に落とし込まれ、人々の手に渡っていった。それを「白石紙子」と名付けて、白石市の新たな名産品としたのだ。
僕自身が白石の紙文化に興味を持つようになったのも、白石紙子の製品を手に取ったことがきっかけだった。白石紙子の文化が残っていたおかげで、和紙のこと、白石市のことに興味を持つようになった。白石紙子は僕が勤めている東北スタンダードマーケットや、カネイリショップの系列店でも販売している時もある。「時もある」という言い方をしたのは、生産量がそこまで多くはない上、仕入れに行く際には僕自身が運転して、文子さんの元にお邪魔しているからだ。
「店頭で白石紙子を手に取ってくれた人が、少しでも産地に興味を持ってくれれば、東北のことを好きになってもらえるかな」という気持ちで、白石市から仙台市まで運んでいる。
「白石紙子」を今だからこそ使いたい
工房に通う度、文子さんとも徐々に打ち解けていった。今では、お邪魔するときには毎回お馴染みのかりんとうを差し入れていて、お茶をいただきながら、ついつい長居してしまう。そうしている内に、僕は自分自身で使いたい柄をオーダーしたいと思い始めた。一から柄のパターンを作ることも考えたが、せっかくの先代が残してきた版木を、そのまま使いたいと感じた。そこで選んだのは、縞々模様の通称ボーダーの版木。これを活かしたまま、少しだけ変えれないだろうかと思い、こんなことを切り出した。
「文子さん、垂直じゃなくて、斜めに叩けませんか?」
最初は難しいそうという表情を浮かべていたが、チャレンジしてみると案外うまくいき、文子さんの表情も明るくなった。
何十年と、同じ版木に向き合い続けて、同じ作業をしていたため、新鮮に思えたそう。心なしか、イキイキしているように見えた。ストライプ模様に加え、他にも2柄をオーダーし、東北スタンダードマーケットだけの別注品として販売をしている。当然、僕自身も愛用している。
紙の名刺入れというと、耐久性の面で敬遠する人もいる。しかし、僕は1年間使ったら買い替えて、新しいものを迎え入れるつもりだ。宮城県には1年間お世話になった郷土玩具やお札をお焚き上げする「どんと祭」と呼ばれる風習が残っている。1年間で買い換えることが風習になっていたからこそ、職人さんへ継続的に注文が入り、自立することができていたという話を聞いたことがある。名刺入れは自分を表す特別なアイテムであるからこそ、いつも新鮮な心持ちでありたいし、僕は毎年文子さんに仕事をお願いしたい。
こうして「作り手の仕事を残していく」仕組みは、自然素材の道具と共に暮らし、用が済んだら土に還してきた、東北の農村の営みに似ているかもしれない。「消耗品」ではなく「循環品」としての考え方が、手仕事を継承していく。
最後に、このコラムを書くにあたって、参考にした本がある。「紙の手技(笹氣出版)」という本だ。その中から、白石和紙最後の漉き手・遠藤忠雄氏が、平成元年に語った言葉をぜひ紹介したい。
「元号が平成になりました。その平成とは、どういう形なのか。世界の人たちが仲良くしていくことなんですが、楮の長い繊維がお互いに組み合わさって、平らな一枚の和紙ができるように、世界の人たちが真に平らな心になっていくこと。それが、この元号に応えることではないかと思います。」
− 「文化伝承叢書⑴ 紙の手技 p.13」より引用
平和の象徴としての和紙。
「令和」の元号が書かれた紙は、どんなものだっただろうか。