災難から起きあがる松川だるまのはなし。

取材・写真:岩井 巽(東北スタンダードマーケットディレクター)

仙台市の“桜ヶ丘”という地区で生まれた僕は、5歳の時に親の転勤で青森市に引越した。幼稚園・小学校を青森市で過ごし、再び仙台に転勤となったのは中学2年生の時。一番多感な時期に感じた仙台市は、中途半端に流行に敏感で、同級生は皆“Mikasa”のバッグを持ち、短ソックスを履いていた。それから数年経って進学先に選んだ大学は、山形市にある東北芸術工科大学。高速バスで仙台から直通の東北芸工大に初めて降り立った時、青森の田舎の地域と同じ、馬ふんが燃える香りがした。仙台市の大学も幾らか見学したが、その臭いで山形市への進学を決めたのだ。

そんな “田舎コンプレックス”の僕にとって、今でも仙台は「心休まらない街だなぁ」と感じてしまう。だから「仙台で好きな場所は?」と聞かれると、困ってしまう。しかし、そんな僕が仙台を好きになるきっかけとなった場所がある。それが仙台張子を作る「本郷だるま屋」さんだ。

 

本郷だるま屋は宮城の伝統的工芸品の「仙台張子・松川だるま」を作り、大崎八幡宮などの仙台市内の神社に納めている。その発祥は天保年間(1831〜1845年)なので、今から200年近く前だ。伊達家に仕えていた武士が生んだと言い伝えられている。

初めて本郷だるま屋を訪ねたのは、大学2年生の時だった。少しだけ工芸・民藝(みんげい)への関心が出てきて、地元の工房を訪ねてみようと思い立ち、インターネットで調べた時に一番上に出てきたから……という単純な理由で伺ったと記憶している。しかも、その時民藝への興味が沸いていたのは、東北芸工大でデザイナーを志していた自分が、日本を代表する工業デザイナー“柳宗理”に憧れて、その柳宗理が鳴子のこけし職人とものづくりをしていたから、という理由であった。つまり、かっこいいデザインで同級生がまだ着目していないもの=民藝という、思い返すと浅はかで間違った解釈の興味の持ち方だった。当時一人暮らしの僕の部屋の中は、白か黒、たまに無垢の木の色というシンプルな配色で、失礼ながら松川だるまは“派手”だなと感じながらも、工房を訪ねた。

閑静な住宅街にある、一軒の古民家が工房だった。大きな木枠のガラス戸を全開にし、その中に無限とも思える数のだるまがびっしりと並んでいた。だるまの中に紛れて、おじいさん2人と奥さんが黙々と絵付けをしている。時折前を通りがかる小学生が、工房に向かって元気に挨拶をしていた。

 

「お電話していた、東北芸工大の学生です。今日はよろしくお願いします。」

そう伝えると、おじいさんの隣にいる奥さんが「いらっしゃい」と言い、工房の隣の畳の部屋に案内された。靴を脱いで小上がりにお邪魔する。掘りごたつに布団がかかってあり、足を入れてお話を聞いた。奥さんが言った。

「それで、何を聞いてみたかったのかしら。まぁお茶でも召し上がってください。」

職人さんの工房にお邪魔するのはほぼ初めてだった僕は、しどろもどろ。地元が仙台で、でも地元の工芸品をあまり知らなくて、それで色々聞いてみたくて……と困っていると、

「今はどんなことを勉強なさっているの?」

「デザインです。家具の形を考えたり、家電のアイデアを出したり……。」

「まぁそう。色々考えなさっててすごいわねぇ。うちは、200年近くずーっと同じだるまを作っているのよ。私はこの家に嫁いできたの。」

「ずっと、変えずに……。」

事前に調べて分かっていたはずなのに、新商品を一切出さずに、デザイナーともコラボせずに、ずっと同じものを作り続けて生きていくということがどういうことなのか、理解が追いつかなかった。特に、毎日新しいデザインのアイデアを考えていた美大生の自分にとっては。

「……そうなんですね。じゃあ、松川だるまはなんで生まれたんですか?」

「天保の大飢饉って聞いたことないかしら。」

「あ、なんか、小学校の教科書で見た気がします。天保って何年前でしたっけ……。」

「1800年代のことなのよ。その時の伊達藩にはずーっと大雨が降っていて、農作物が全く採れなくなった。それで武士達は戦もしている場合ではなくなり、人々は祈るしかありませんでした。その時に、伊達家に仕えていた“松川豊之進”という人が中心となって、武士たちが作り始めたのが松川だるまの発祥と言われているの。なので、隣の工房でだるまを作っている私の主人の先祖は伊達藩の家来なんですよ。」

「え! 伊達藩の家来なんですか?」

「そうです。お墓は瑞鳳寺の中にありますよ。」

最初から両目に黒目が入っている松川だるまは、伊達藩発祥ということもあり、独眼であった伊達政宗公が「ものを作るときは両目を入れなさい」と部下に教えたからだそう。その教えを守り、今でも黒目を描けるのは武士の末裔(まつえい)の男性のみ。つまり、本郷だるま屋のご主人だけなのだ。

天保年間、人々は松川だるまを“だるま様”と呼んで拝み、祈りを続けた。その甲斐あってか大飢饉状態は回復。そんなエピソードを聞くと、仙台市の守り神として神社に納められていることも納得できた。また、段々とサイズが大きくなることにも意味があり、8体を揃えると“七転び八起き」で厄災から逃れられると言うのだ。

奥さんは更にこう続けた。

「だるま屋さんは、最近妙に忙しくてね。東日本大震災があってから、お客様が多く見えるようになったんですよ。」

「震災とだるまに何か関係があるんですか?」

「震災の翌日、工房もぐちゃぐちゃになって、しばらくお休みにしようとしていたの。だけど、工房の前に大きな風呂敷を抱えた男の人が立っていて。女川で津波にあい、大事にしていた松川だるまが浸水してしまって『このだるまさんが起き上がらないと、自分の気持ちも起き上がれない。だから直してほしい』と仰ったんです。」

その男性を皮切りに、震災のショックから起き上がる勇気をもらいたいと工房を訪ねてくるお客さんが絶えなく、工房を再開したという。200年前に起こった“雨”による大飢饉と、2011年に起こった“波”による大災害。奇しくも、どちらも水によるものだ。そもそも松川だるまの正面が青色になった由来には「七福神が宝船に乗って、三陸の海から福を運んでくるように」という言い伝えがある。松川だるまは、現代では薄れつつある自然への畏敬の念を、そのまま形にしたような姿と言ってもいいのかもしれない。

――奥さんは他にも様々なことを教えてくれたが、生半可な気持ちで工房を訪ねた僕にとっては情報量が多すぎて、とても抱えきれなかった。帰り際、一番小さい3寸の松川だるまを買い求めた。これからも本郷だるま屋にお邪魔して、抱えきれなかったお話を伺うと共に、徐々に大きいだるまを揃えていこうという気持ちの表れだった。

一人暮らしの家に帰ると、モノクロの部屋に青いだるまが浮いていた。

その様子を見ながら、これからはこのだるまが浮かないような暮らしをつくっていこうと感じた。

それから数年経ち、今では仕事として、仕入れに本郷だるま屋さんへお邪魔している。何度訪ねても”新しい昔話”が聞けて、とても楽しい時間だ。この記事の読者の皆さんにも、ぜひ工房に訪ねてお話を聞いてほしいと言いたいところだが、実際は伺うと作業の手を止めてしまうので、ほどほどにしている。ちなみに、初めて伺った古民家の工房は、建物の取り壊しによって無くなってしまった。今は青葉区川平に工房を移し制作している。

昨年、新しくなった本郷だるま屋さんに伺った帰り、妙に見覚えのある道を通った。茶色く古びた公共団地群が左右に並んだ、一本の坂道。そこは僕が5歳まで過ごした桜ヶ丘団地だった。車を停めて、今では小さく感じる団地を見ながらほっとし、こう感じた。

“残っている”ことが、価値なんだ。